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リルケ詩集

リルケの詩集は私にとって聖書のようなものです。
私は心のバイブルをいっぱい持っていますが、その中でもリルケの詩集は不思議です。私に気づきを与えてほしいときにこの詩集をてきとうに開くと、なぜか答えの「鍵」がのっているからです。
ちなみにこの感想文を書く際、リルケの詩集を開いたら
「天使に寄す」という詩が目に飛び込んできました。

私をもっとはっきりさせるがいい なぜなら私は消えていく

はっきりとした絶望のようなものが私の中に広がりました。おそらくリルケの絶望ではなく、私の絶望です。
私の言葉は消えていく、私の存在もそのうち虚ろになる。

私をもっとはっきりさせるがいい なぜなら私は消えていく

もっといっぱい小説や詩や、エッセイや色々なものが書きたい。
何故なら私の想いはたまゆらだから、一瞬一瞬を書き留めておきたい。
それらはかつて――私にとってどうでもよくなかったものたちだ。愚かな私を一つ一つ刻んでおきたい。

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シッダールタ

この本ほどやさしく平易に、そして読みづらく先に進むのが怖い本を私は知らないです。
毎日、たった160ページしかない本の一章一章を少しずつ読み進めました。毎日瞑想して物思いに耽り、毎日疲れて寝て、最後まで読み終わった日は知恵熱を出しました。
読むのに一週間以上かかったけど、シッダールタは私のためにある本だと感じました。だけど私はシッダールタの境地まで擬似的にすら達することができませんでした。
川の音を聞くシーンが何度も頭の中を反芻して、瞑想するときに風の音や時計の音をじっくり聞いてみたりもしたんですよ?(笑) だけど風の音は風の音、時計の秒針を刻む音もやっぱりそうとしか聞こえませんでした。
言っている意味はわかる、感情もいやというほど感じて涙が出たくらいです。だけどだめだった。私はこの境地に至るまでの智慧をもっていなかった。知識はいちおうあったけれども、書かれていることは知識として入っただけにすぎなかったのです。
色々なところでつまり、読み進められなくなったけれども、一番つまったのは
「あまりに大きい賢明さを戒めよ!」
とゴータマに言われるシーンです。この答えの意味を何度頭の中で反芻したかわかりません。何度自分を賢いと思って、何度自分を愚かだと思ったことでしょう。私はきっとこの段階なのでしょうね。

シッダールタは私の探していた涅槃の答えの鍵をくれました。
それは存在しない、ただの思想でしかない。「ただの」と言いながら、「今の」私にとってはすごく重要なものなのです。
ゴーヴィンダはシッダールタの影からゴータマの影になった。私はリルケの影からヘッセの影になった。これからも変わっていくかもしれません、なんせ私には数々の尊敬する作家さんがいるので。
ただ、変化するということは美しいなあと思いました。それは永遠の美なんかよりもずっとずっと美しいものです。若い頃は年をとりたくないと思っていたのに、不思議な気持ちですね。

アラビアンローズ

アラビア風ファンタジーを舞台ににライラと王子が恋に落ちる話。
ルルル文庫の下調べのために買った本だけど、けっこう面白かったです。16歳で胸がなくて強気な女の子というのは割とお約束だけど、ライラの世間知らずっぷりやシャルディーンの食えない男っぷり、最近の少女小説はこんな雰囲気なのねーと思いました。いや、まだもうちょっと下調べは続けますが。
「自分の話にオリジナリティはない」と言い切っている作家さんのリツイートがあったのですが、要は面白いこと、読みやすいことが大切なのであって、必ずしも示唆的なものが読みたい読者さんばかりじゃあないってことは私も念頭に入れておかなきゃいけないことです。アラビアンローズはたしかに面白かったし、テンポもよかった。ほいほい次はどうなるんだろうって読めました。
だけど私と波長が本当に合う話かって聞かれたらちょっとわからないです。ドツボにはまったわけではない、くらいでしょうか。

「うまくいかなさ」を表現する

「ライ麦畑をさがして」という本を読みました。
「ライ麦畑でつかまえて」を愛読書にしている精神病院を退院したばかりの青年の話です。
ホールデンは入院してしまったところで終わってしまうのに、、彼は退院してしまった。そして学校で出た課題は「ライ麦畑でつかまえて」の続きを書くというものだった――

あと書きを読んだとき、大江健三郎は「作家というものは子供の頃の出来事を繰り返し書いているにすぎない」と言ったと書いてありました。まったくそのとおりです、作家っていうのはあの時代をぐるぐるしているだけなのだと思います。
「うまくいかなさ」を表現するのが作家、何か次の一歩の勇気をくれるのが本なのかなって私は感じました。
主人公のニールが見たサリンジャーの姿はあまりに孤独だった。ホールデンをあれだけ生き生きと書いたとは思えないほど老いていた。
自分を理解してくれていたのはホールデンでもサリンジャーでもなく、周りの人々だったというお話でした。
私自身、「この話は私の手元にくるために書かれた本だ!」と感じた本が何冊もあるけれども、「ライ麦畑をさがして」も、その中の一冊です。だけどニールが私を理解してくれているわけじゃあない、きっと理解してくれているのは一番身近な人たちなのでしょう。

ティファニーで朝食を

ホリー・ゴライトリーの勝手すぎる日々について書かれた「ティファニーで朝食を」なのですが、こんな女いたら絶対に迷惑だろうなあと思いながら、いつしか私もホリーを目で追っているんですよね。
彼女の自由奔放な様子は魅力的でもありながら破壊的でもあります。
映画派か原作派かにわかれるとは思いますが、私はたぶん原作派。
原作ではホリーは麻薬のディーラーとして捕まってしまうのですが、最後の最後まで、羽をもがれるくらいならば破滅的でも自由の方向に飛び立とうとするホリーの鳥のようなエネルギーが私は好きでなりません。